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遊劇舞台二月病

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1954年11月、アメリカのサン・クエンティン刑務所で、囚人1400人を観客として、ベケットの『ゴドーを待ちながら』がサンフランシスコ・アクターズ・ワークショップの劇団員により上演された。

前衛劇として名高いこの作品がなぜ刑務所での上演作品に選ばれたのか。理由は、女優がいなくても済む作品を探したらこれしかなかったからだった。

この難解な前衛劇が果たして囚人に理解できるのかと関係者は心配したが、終演後に囚人に話を聞いてみるとこんな言葉が返ってきた。

「ゴドーというのは、つまり娑婆のことだ」

ゴドーを待つ登場人物に、囚人たちは出所を待つ自分たちの状態に重ねていたのかもしれない。

このことは、観客は現在の状況によって前衛にすらついてくるものだ、という例証の一つと言われる。



表現における、提示する側と受け取る側の関係性は先程述べたように、それぞれの状況により様々であるが、そこには資本主義社会における需要と供給のサイクルにも似た相互関係がある。

例に出した演劇以外にも、文学においての作者と読者、美術における画家と観賞客、ラジオパーソナリティーとリスナーといった関係性は、提示する側と受け取る側の双方のアプローチが理想とされている。

神の見えざる手に導かれるかのように、囚人は『ゴドー』に対してそれぞれの立場からアプローチを行い、刑務所をアングラ劇場よりもアングラ的にしてしまった。

社会のサイクルとは一線を隠しているように見える表現にも、きわめて資本主義的な構図を描くことができる。


逆に考えるならば、社会生活の中にも表現の要素があり、それが社会のサイクルを担っているという意見も生まれる。




そして、今日の昼である。

私はたまたま、笑っていいともをみていた。

クイズのコーナーで、ある会社の社長が「〇〇をアクセサリーにしたらバカ売れ、さて〇〇はなんでしょう」という問題が出題されていた。

昼飯を食いながらみていると、正解は食品サンプルだった。

フルーツでできたネックレスが映り、厚切りベーコンのピアスがアップになる。さらには焼きそばみたいなやつの髪飾り、これらがいいとも曰く、バカ売れらしい。

渡辺直美が髪飾りを付けて、観客から「かわいー!」と黄色い声を浴びている。

私は眉をひそめずにはいられなかった。

「かわいいか!? あれ!」

先の一遍を踏まえるならば、このテレビから聞こえる黄色い声はどのようなアプローチの結果なのだろうか。神の手も手元が狂ったか、あるいはこれも神の手の指し示すことなのだろうか。

思えば、バブルの頃のプロデューサー巻きが再び流行っている。レインブーツってあれ要はゴム長靴でしょ。

「神の見えざる手」はもはや、「何処かの誰かの見えざる手」なのかもしれない。

そんな人ばかりではないだろうが、我々は焼きそばを頭にのっけてるのを見て「かわいー」と叫ぶ連中にどのようにアプローチをすればいいのだろうか。

そんな連中はほっとけばいいのか。そうだとしたら、表現は社会のサイクルにのまれてどうにかなってしまうのではないか。


刑務所の『ゴドー』のようなアングラよりもアングラ的な光景が、表現よりも表現的な光景が消えてしまうのではないか。


昼時にこんな複雑な心境になるとは思わなかった。今年度で終了する長寿番組の真価を見たような気がした。


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2013.10.28 22:18 | 橋本達矢 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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